竹中土木
現場は、仲間だ。 思いを一つに走り続ける。
Chapter 01

それは工期との戦いだった

戦後日本の経済成長を支えてきた東名高速道路。その輸送量は限界に達し、新たな大動脈道路として建設が始まったのが、第二東名高速道路(新東名)だった。小國智一郎が現場所長を命じられたのは、神奈川県秦野市の葛葉川橋下部工工事。難工事と目された現場であったが、小國の胸にあったのは「自分がやるしかない」という、道路や鉄道などの経験豊富なベテランらしい自負だった。
難工事との懸念はすぐに現実のものとなる。埋蔵文化財の調査だ。土偶や剣などが見つかると工事はストップ。遺跡調査が何層にもわたる地層を掘り進んで、調査を終えるのを待たなくてはならない。所長である小國は、そのつど、資材や重機の移動、作業者の調整などに追われた。こうした埋蔵文化財の調査は数ヵ所に及び、ただでさえ余裕のなかった工期はさらにシビアなものになっていったのである。 だが工期の遅れを取り戻すため、小國は“秘策”を仕掛けた。通常は現地で組み立てるコンクリート型枠や足場を事前に組み立てておき、必要な時にすぐさま重機で据え付けるという方法だ。長い現場経験を活かし、工期の遅れをカバーしていったのである。

Chapter 02

オレたちTEAMの現場なんだ

施工延長約1kmという区間を縦断する工事用道路に10本もの市道が交差する点も工事を難しくしていた。市道ということは、当然のように一般市民が日常的に通行することを意味する。万が一にも工事車両等との事故が起きてはならない。各市道交差部に警備員を配置したり、ドライバーへの安全教育を行ったりといった対応は当然のこと。小國がそれ以上に力を入れたのが、現場の一体感づくり(明日もこの現場で仕事がしたいと思える現場づくり)だった。
例えば約150人の現場バーベキュー大会だ。主役は現場作業員で、小國は「肉を焼く係に徹しました」。それもこの日のため各所から現場バーベキューではあり得ない食材を調達し、作業員の労を労った。それは、職種の違い・会社の違いを超えて、にぎやかなひとときを過ごすことで、同じ仲間(TEAM)という一体感が生まれていった。
「現場では多くの協力会社が働いている。その1人ひとりが互いを知り、気遣う空気をつくることで、みんな一緒になってものづくりをしている、という思いが共有できた」と小國。自分の会社だけがよければいい、という現場では安全は守りきれない。“オレたちの現場だからオレたち全員で守る”という意識が不可欠だ。4年3ヵ月に及ぶ工期で無事故無災害を達成できたのは、延べ人員69,874人が1つになれたからこそである。

Chapter 03

遠い再訪の日を待ちながら

小國が担当したのは橋脚24基と橋台3基の高速道路の下部工。通常は工事がすべて終了後、まとめて上部工側に引き渡す。だが工期が逼迫する中、現場を4分割して、完成した橋脚・橋台から順次、上部工側に引き渡したのである。次第に下部工の作業エリアは狭くなっていくのでそのしわ寄せがくる。だが現場では資材置き場を工夫し、1本の工事用道路を譲り合い、「上部工側が少しでも作業しやすいように」と上部工桁架設ヤードを造成する心づかいまで行った。すべては、このクリティカルな工事が順調に進むように、との思いからだった。
小國から現場を引き継いだ上部工側では、順次桁架設を行い、2022年の開業を目指して急ピッチで工事を進めている。その順調な進捗と安全を祈りながら、小國は開業後に思いを馳せる。
かつて長野新幹線の高架橋工事に携わった小國は、昨年、当時の仲間と一緒に約20年ぶりに現場を訪ね歩いた。新幹線車両がその区間を通り過ぎるのは一瞬で、誰も工事をした人間のことに思いなど至らないであろう。「それがインフラというものだ」と小國は笑う。
「長野新幹線の現場を訪ねたら、仲間とのいろんなエピソードを思い出しました。新東名の現場も、いつか訪ねてみるつもりです。きっとたくさんの思い出がよみがえって、改めて誇らしく感じるでしょう」。

Profile

小國 智一郎
日比谷線広尾駅
中目黒方面方出入り口新設作業所 所長(現場代理人)
1992年入社
工学部土木工学科卒

土木に特化したところに惹かれ入社後は道路改良工事、鉄道アンダーパス工事、推進工事、下水道整備工事、トンネル整備工事、宅地造成工事など様々な現場で経験を積み、2008年に新幹線高架橋工事、2013年圏央道高架橋下部工工事所長、2016年に新東名葛葉川橋(下部工)工事所長を担当。
「現場には、所長の考え方や個性が表れます。自分の能力、経験をすべて注いで現場を統括管理するのだから、その結果として完成するのは“自分らしい作品”です。そこが現場所長という仕事の面白みですね」